射影と切断〔Ⅱ〕
―J.V.ポンスレへの道程―
2001年3月3日論述
〔新しい幾何学へ――ルネサンスの天才達〕
ローマ教皇庁の文書官、そして、ラテン語散文の秀逸さで知られる一人のカトリック司祭がいた。近世の世明けを告げる息吹きの中で、生地ジェノヴァからパドヴァ、ボローニャで修学し、やがてフィレンツェでメディチ家と親しみ、ローマに定住したが、彼のラテン語による業績は、文芸のほかに、美術・哲学・数学と多岐にわたっている。
特に建築における業績は、後世に与えた影響力で傑出している。
レオン・バティスタ・アルベルティの代表作として、リミニの聖フランシスコ聖堂の設計をあげることができるが、天才達にまつわるエピソードには「驚き」がこめられている。アルベルティの場合、技術的経験のない設計者が遺した新時代への指導性がそれである。だが、私はこうした事例の多くが古典主義的傾向の創作者たちにしばしばみられることを強調したい。
一つの特異な例が、こうした事項についての興味深い主題を提供する。フレーゲやラッセル等とともに現代論理学の形成に大きな役割をになったルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインによる唯一の建築設計である。
[説明]
1926年、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは実姉マルガレーテ・ストンボロウ夫人の住居建築の設計をした。この姉の肖像画はグスタフ・クリムトの作品として今日に残されている。
ガラス窓と扉、サロンの入り口に面した南側のテラス。全体が四分割され、それぞれが縦桟で再分割。扉の高さ(2.825m)は、ガラスの開口幅に等しい。
ヴィトゲンシュタインの愛弟子、フォン・ウリクトは、この建築物が「論理哲学論考」の命題に等しい、簡潔で静かな美しさを持つことを語った。
あらゆる装飾を排除しながら、居住性に優れた、しかも前衛的なこの家は、後年、オーストリア国家指定の記念物に定められた。
20世紀という同じ世紀の中で激しい展開を経たあらゆる美の分野で、この20世紀初頭の建築が持つ単純明解で秀れた構成美について、今日の前衛的設計者たちに今なお大きな示唆を与えていると言われている。工学に専心した若年の日から、やがて数学のさまざまな主題への関心、そして数学基礎論への到達――、ヴィトゲンシュタインにおける探求の経緯は、またその哲学の変貌と規を一にしているが、始終変らないことの一つとして、近代哲学への厳しい否定がうかがえる。詳説は別の機会にゆずるが、ヴィトゲンシュタインにおけるスコラ学への強い親近性の現われを認めることができるだろう。
[説明]
1926年、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは実姉マルガレーテ・ストンボロウ夫人の住居建築の設計をした。この姉の肖像画はグスタフ・クリムトの作品として今日に残されている。
ガラス窓と扉、サロンの入り口に面した南側のテラス。全体が四分割され、それぞれが縦桟で再分割。扉の高さ(2.825m)は、ガラスの開口幅に等しい。
ヴィトゲンシュタインの愛弟子、フォン・ウリクトは、この建築物が「論理哲学論考」の命題に等しい、簡潔で静かな美しさを持つことを語った。
あらゆる装飾を排除しながら、居住性に優れた、しかも前衛的なこの家は、後年、オーストリア国家指定の記念物に定められた。
20世紀という同じ世紀の中で激しい展開を経たあらゆる美の分野で、この20世紀初頭の建築が持つ単純明解で秀れた構成美について、今日の前衛的設計者たちに今なお大きな示唆を与えていると言われている。工学に専心した若年の日から、やがて数学のさまざまな主題への関心、そして数学基礎論への到達――、ヴィトゲンシュタインにおける探求の経緯は、またその哲学の変貌と規を一にしているが、始終変らないことの一つとして、近代哲学への厳しい否定がうかがえる。詳説は別の機会にゆずるが、ヴィトゲンシュタインにおけるスコラ学への強い親近性の現われを認めることができるだろう。
アルベルティの場合、古典的遺産への深い研究が、建築の基本精神から生れる造型感覚に強く結びついているが、直接的な影響として、フィリッポ・ブルネレスキの存在を忘れることはできない。フィレンツェ出身のこの建築家は、彫刻家を志した時期に、当時の新しい学問であった「遠近法」を究めたと伝えられている。
遠近法については既にギリシャ時代に始まると言える。陰影画として伝えられている記録がその事実を示しているが、ルネサンスの画家達はそれを空間表現のための芸術的手段として確率していった。アルベルティは、マントヴァの聖アンドレア聖堂の建築に際して、堂内の平面設計と空間構成とで後世への影響を深くしたが、その古典主義的造型感覚は独自の斬新性と相まって巧みな整合性を果したと言えるだろう。
ブルネレスキとアルベルティ。遠近法に内在する性格=数学的構造の解明に情熱を傾けた二人だが、それに続く最大の天才にわれわれは出会わねばならない。
〔射影と切断2――透視図法〕
レオナルド・ダヴィンチを偉大な詩人とよぶことに異論はないだろう。そして、この尊称は、彼の芸術活動における業績だけに由来するのではなく、解剖学・天文学・光学・力学・地質学・建築学・飛行術の試み、といった多彩な成果の上に由来することを後世の人達は知っている。
しかし、私はいま数学史の中だけに限って、ダビンチを偉大な詩人と言うのである。彼が先導者から受け継ぎ、やがて完成した透視図法理論の奥にこそ、詩人としての秀れた特質を私は思う。それは、不思議な美しさを人々に与えずにはおかない「射影と切断」の概念に由来する。19世紀に形成される射影幾何学の基礎は、ダヴィンチによって与えられたと言えるのである。
レオナルド・ダヴィンチ 「最後の晩餐」 |
対象と眼を結ぶ無数の視線の集合からできる錐面(visual cone of rays)を垂直な画面によって切る。その切断面である透視図と画面との関係から生れる概念である。画面に平行な直線(縮小されない平行線)と画面に傾く直線(縮小され、互いに平行な場合、一定点に集中する直線)による図形として、それは考えられよう。
有名な「最後の晩餐」の完ぺきな透視図法をわれわれは思い出す。この絵では、射影の頂点、即ち縮小された直線が集中する一定点が食卓の中心に坐するキリストの額になっていることにより、逆の射影の表現のように思わせる。この効果は一つの美学を形成する。
〔射影と切断3――円錐曲線〕
――円錐曲線に内接する六辺形の、相対する三組の辺の交点は共点である。
有名なパスカルの定理である。通常、円あるいは長円(楕円)に内接する六辺形として示されるが、ブレーズ・パスカルは十六歳のときの「円錐曲線試論」で、自からの研究がジェラール・デザルグの業績に負うところが多いことを述べている。「デザルグの定理」については改めて詳述するが、パスカルの探求は、すべての円錐曲線に向けられ、こうした作業の根底に、あの遠近法→透視図法から継承した「射影と切断」の概念が存在することは当然である。
建築技術家だったデザルグが、ダヴィンチ、デューラーの業績に感銘を受けたに違いないという想定は充分成り立つ。だが、当時、多くの数学者たちから無視されたため、彼は建築家に戻ってしまい、若年のパスカルが初めて彼の功績を讃えた。
だが、それにも増して、歴史の皮肉は次の一事に集約される。
数学的立場――やや妥当を欠く表現ではあるが――、この立場を異にする解析学の大家ルネ・デカルトが、デザルグやパスカルの「射影と切断」の研究を評価した唯一の人物だったと言われている。今日、例えばイギリスの数学者アーサー・ケーリー(1821―1895)の次の言葉――
Projective geometry is all geometry
(射影幾何学はすべての幾何学である。)
に示される広範囲の影響力を発揮するには、十八世紀終り頃から十九世紀にかけての「エコール・ポリテクニク」の数学者たちの出現を待たねばならず、そのため、この美学的特質を備えた幾何学は、約二百年の長い眠りにつくことになる。
円錐の頂点を、かりに透視図法で「消失点(vanishing point)」と称する一定点とみなせば、円錐とはそもそも、一定点に集中する視線の集合、即ち、「円の射影(projection)」であり、円錐曲線は「その切断(section)」である。そうすれば、この切断面に内接する六辺形の射影を新たに切断すると、新しい切断面(円錐曲線)に内接する六辺形ができることになる。そのとき、二つの円錐曲線と同様に、また二つの六辺形と同様に、もとの「相対する三組の線の交点が作る一直線」と新しい六辺形から同じように作られる一直線は、「配景的(perspective)」な関係にあることになる。なぜならば、新しい六辺形についてもパスカルの定理はそのまま成立するからであり、このすべてがまた射影幾何学の重要な定理である。
円錐曲線を例えば英語で考えるとき、この美学的特質を持った概念は更に明確になるだろう。
Conic Section――直訳すれば「円錐切断面(または線)」ということである。
〔中世論理学のなかの射影幾何学性〕
ジャン・ヴィクトル・ポンスレによる射影幾何学の形成で、最も注目すべき成果は次の二つの着想のなかに見出すことができる。
①
連続の原理 Principle of Continuity
②
双対の原理 Principle of Duality
これについては別項で後述する。ここでは、論理学史に顔を出す双対性(そうついせい=duality)の問題を考えたいと思う。ポンスレへの道程を探ねる歴史との対話で、それは決して無意味ではあるまい。
論理学の歴史における「怠惰な経過」が、しばしば、あらゆる歴史の中で類
を見ない特異性として語られる一般的見解がある。膠着した名辞論理学はアリストテレス以来、約二千年ものあいだ、殆んど無修正のまま継続した。十九世紀になってようやく、それも数学者たちが考察を深めていった「数学基礎論」から新しい展開が得られた、とされている。
しかし、この蓋然的な一般論が見落しがちな歴史の真実を確かめることは常に必要であろう。
それは中世哲学と一般に言われている「スコラ学派」の成果と衰退、いわば年月の灰の中から甦えった事実である。論理学史、あるいは哲学史の詳説はここでは省略する。即ち、宗教改革などによる中世の終焉後、ラミスト的論理学、あるいはポール・ロワイヤル論理学などの緩やかな展開があったとはいえ、中世スコラ学が遂げてきた発展は、この時期の時代感覚(反カトリック思潮)によって拒否されてしまっていた。その結果、カント哲学からの飛翔を狙ったヘーゲルが、「論理学」的著作の集大成を形成したが、例えば彼の「大論理学」が論理的内容を備えていないことは、今日、誰の目にも明らかである。このため、ベルンハルト・ボルツァーノは、単に「反カント」であるばかりでなく、ヘーゲル論理学への力強い批判を続けていた。
だが、先記したように、ここではその詳述は別の機会に譲り、二つの事項だけに対象を限定する。この二つは歴史的観点からすれば分離できない一体性を持っている。 ――(1)命題論理学の展開、(2)双対性の導入による飛躍、である。
だが、先記したように、ここではその詳述は別の機会に譲り、二つの事項だけに対象を限定する。この二つは歴史的観点からすれば分離できない一体性を持っている。 ――(1)命題論理学の展開、(2)双対性の導入による飛躍、である。
(1)については、十九世紀から二十世紀にかけて、ブール、ルカシェーヴィッチ、フレーゲ、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン等によって確立されたと言われている。(2)については、ブールの代数導入の段階では存在しなかった「非・排他的」選言肢の採用による「双対性」が、クラス論理学の段階ではシュレッダーにより、命題論理学への応用ではヒルベルトとアッケルマンによって達成されたと言われている。
だが、アリストテレス以後のさまざまな継承者、また著名なメガラ――ストア派の秀れた業績でさえ陥っていた「排他的選言肢」から、完全に免れていたスコラ学派の先見性と「神学から始まる諸学への深化」の態様は、現代哲学の考えかた、そして、数理論理学が多様な展開を準備した現代論理学の思考法に最も密接するものとして考えられるだろう。私がしばしば強調する「真の前衛は、いつの時代でも、常に古典主義の中から新生する」原理を、論理学史の事実もまた物語っている。
簡単に説明しよう。
記号論理学(数理論理学、数学的論理学と同義)で、(V)で表記される「あるいは(or)」の意味を持つ選言記号において――
PvQ(Pであるか、またはQである)
という命題の真偽で、PとQのどちらかが真であれば命題は真、PとQのどちらも偽であれば命題は偽となる。これは古典論理の世界でも同じである。問題はPとQのどちらも真である場合、現代論理学が命題を真とするのに対して、伝統的論理学はそれを偽とする差異が生れている。伝統的論理学、この「排他性」は論理学の発展を妨げる原因であった。
排他性の原因は、文の最小単位を名辞(名前――term)に措定することにある。つまり「主語+述語」の「+述語」が「=名辞」の形式に固定されるとき、論理学が扱う範囲は「主語が述語に包摂されるか」の真偽だけに限定される。当然のように「これはコーヒーであるか。または紅茶である」の命題で、PもQも真であることはあり得なくなる。
これを別の場面に置き換える。――この飲みものについて、いったい彼は何と言っていたのか? それに対して――彼はこれをコーヒーと言ったか、あるいは紅茶と言ったかのどちらかです。
この場合、彼がPと言い、またQと言うことはあり得る。PとQの双方が真であっても、先の命題は真となるのである。即ち、現代論理学の基本となった命題論理学では、最も単純な命題そのものが最小単位になるということ、従って指示された物が何であるかより、「主語+述語」の「述語」が動詞を中心とした動態的な文の構造を確かめる思考法に発展する。
この「選言命題」に対する「連言命題」の両者を、ヴィトゲンシュタインによって確立された真理値表(truth table)を使って表示してみよう。(Tは真、Fは偽を表わす。)
この「双対の原理」は命題論理学の形式とともに論理学に導入された「射影幾何学の着想」である。当然のように、「述語論理学」から「様相論理学」への発展の経過で、論理計算における効用性を発揮するばかりでなく、思考の基本を形成する作用をも果している。
学問体系の生誕期において、名辞論理学にみられる最小単位としてのtermの設定、あるいは包摂概念の中心視といった思考作用は、ある必然を伴う条件とも言えよう。重視しなければならないことは、むしろ、スコラ学派が形成しつつあった(それが神学への推断であったとしても)命題論理学への展開を、中世の終了時点から、即ち、近代(近世)から現代までの年月を、論理学者たちが見失っていた事実である。カントやヘーゲルの業績を評価したとしても、こうしたドイツ観念論の系譜が忌避し放棄した事項についての反省はなされなければなるまい。
特に、カントからの脱皮、そして新たな展開を図ったヘーゲルが、壮大な体系を紡ぎあげた有名な「大論理学」について、それをヘーゲル哲学における「内実の表出」と想定することは可能であっても、およそ論理学から程遠いことを、現代の論理学者及び数学者は全て熟知している。
現代論理学形成者の一人、ヤン・ルカシェーヴィッチが「命題論理学の歴史」で、その崩壊を惜しむスコラ学派の先見性、その「推断論」における日常言語(ラテン語による)の推論について、また「双対性」が論理学の諸分野で働く役割について、別の機会に論じたいと思う。
〔J・V・ポンスレの二つの着想〕
一つの図形が射影その他の方法によって他の図形に変形される。そのとき幾何学的性質は保存され得るか?
(連続性原理への設問)
上の図における、二つの交わる円を眺めよう。その交点AとB。直線ABは二円の共通弦となる。共通弦の上の任意の点P。点Pから二円に四つの接線をひく。円との接点をT₁・T₂・T₃・T₄とする。四つの線分PT₁~PT₄はすべて等長である。
さて、二円が離れていく想定をする。共通弦は二円の接触点での接線となる。次に二円は完全に離れる。二つの交点→ 一つの接点→ はついに見えなくなる。共通弦は二円の間を通っている(と見える)。
ところで、傍線の部分の「定理――二つの交円にひいた接線の長さが等しくなるような点Pの軌跡は二円の共通弦である」……、この軌跡は変換した図形にそのまま残っている。
ところで、傍線の部分の「定理――二つの交円にひいた接線の長さが等しくなるような点Pの軌跡は二円の共通弦である」……、この軌跡は変換した図形にそのまま残っている。
「連続の原理(Principle of Continuity)」とは右の例示で明らかなように、連続的に位置を変える図形について、最初の証明が生きていることへの要請に基いている。
[連続の原理] →→→
↑↓ ↑↓
↑↓(双対関係) ↑↓(双対関係)
[連続の原理] →→→
[パスカルの定理] |
↑↓ ↑↓
↑↓(双対関係) ↑↓(双対関係)
[ブリアンションの定理] |
例えば(図を参照)、神秘的六辺形として有名な「パスカルの定理」の六辺形が、連続変換で三角形になったとき、もとの辺は三角形での辺と各頂点の接線にもなる。ポンスレは極限の概念を利用して、双曲線におけるパスカルの定理の連続性を示した。円、双曲線、放物線がそれぞれ円錐曲線の連続性で生れる図形であれば、六辺形の定理は、今度は図のような変換した三角形の中でも生かされる。これはまた「パップスの定理」を得たことにもなる。
同じように「ブリアンションの定理――円(円錐曲線)に外接する六辺形の三組の頂点を結ぶ直線は共点である」は、図示のように連続変換で生れた外接三辺形の中にも生きていることになる。
連続の定理で活用されている極と極限の概念、しばしば「虚」点あるいは「理想的」点といわれる「無限遠点(線)――point(line)at infinity」の着想が、既にポンスレより以前、デザルグやパスカルによって得られたものであることは明らかである。この概念については、機会を改めて詳述しよう。
J・V・ポンスレの数学上の武器、あるいは展開への着想のもう一つとして、「双対の原理(Principle of Duality)」がもたらした数学史における影響は、やがて十九世紀に形成される命題論理学や述語論理学への大きな貢献となって現われた。
最も簡単な例は上記の図に示される。
右図――二つの異なった点は一つの直線の上にある。
左図――二つの異なった直線は一つの点の上にある。
右の二つの命題の、点と線を置き換えるとき、互いに双対の別の命題が得られる。
シャルル・ブリアンションは、パスカルの定理から、それと双対関係にある定理をつくったが、それはポンスレ幾何学への一つの大きなステップとなった。(図参照―タテに見る)
この「双対の原理」のさまざまな応用、そして、アーサー・ケーリーの言葉――
Projective
geometry is all geometry.
が示すように、射影幾何学が非ユークリッド幾何学をも包含する内容については、改めて述べたいと思う。