射影と切断〔Ⅰ〕
―J.V.ポンスレへの道程―
春の訪れが彼に生気を甦らせた。
だが、四月とはいえ、ボルガ沿岸に積もった雪は、その厚みを少しも減らす気配はない。雲間からもれる微かな陽光と、白い雪面の輝きに、僅かながら変化の兆しを彼は感じとっていた。
今更のように、自からなすべき事を彼は胸の内に確かめる、そのとき、悪夢は彼に訣別を告げるだろう。悪夢……。
それは突然の来訪者だった。軍事的天才・ナポレオンさえが予期し得ぬ非戦略的反抗である。頼りない軍勢に突きつけられた無条件降伏の勧告のさなかで、モスクワ市民達の本能がそうさせた炎上作戦。極寒の自然は、外来者たちに猛威をふるうだろう。ナポレオンは必生の機をライプチヒの戦場に求めた。
一八一二年十一月、皇帝に見捨てられた敗残軍はクラスノーイの原野で完敗を喫した。
水銀柱も凍りつく寒気の広野を、ぼろぼろの軍服と僅かな黒パンの配給食で辛うじて生命を支えながらの行軍。ボルガ沿岸のサラトフ収容所への四ヶ月に及ぶ行程である。悲惨な脱落者の数は跡を絶たなかった。
四月。雲間からさす陽光と雪面の輝きに、憔悴から立ち直った若い工兵将校は、自からなすべき事を胸の内に確かめていた。
〔エコール・ポリテクニクとナポレオン〕
ジャン・ヴィクトル・ポンスレは、その古典的名著「Traite des proprietes projectives des
figures, 1822(図形の射影的性質の理論)」の序文で、モスクワ戦線敗退の悲惨な経験を記している。
捕虜収容所で、書籍や資料もなく、僅かな筆記具で、エコール・ポリテクニク(パリ高等理工科学校)在学中に得た数学――高等幾何学から微積分学を復習したが、この二十三歳の青年は、やがて解析学等の複雑な細部が脳裏を離れ、基本的原理だけが記憶を占めるようになった――、と後年語ったことが伝えられている。一八一四年九月、J・V・ポンスレはフランスに帰ったが、捕虜収容所の中で「射影幾何学」を形成した事実は周知である。しかし、天才にまつわるエピソード――しばしば極端な記述によって偶然性が強調される――の存在は、ポンスレの場合も例外ではない。不幸や苦難が天才達の業績に対して因果関係を成立させるかのような、あの伝説集である。
サラトフ収容所での苦しい日々。例えば、パスカルにおける「病の善用」との相似性を認めても、そうであれば、なお一つの生の積極的な側面を見ることになる。しかも、ポンスレにおいては、数学はその生の側面だけではなかった。復員後の多忙な軍務の中でも、数学は彼の生のすべてであった。ナポレオンに由縁ある他の数学者達がそうであったようにである。ある成果が天才によるとすれば、天才であるという前提だけで、天才にまつわるエピソードの強調された偶然性を否定するに充分であろう。
ポンスレが後年語ったといわれる「基本的原理だけが記憶を占めた」逸話は、射影幾何学を愛する人達にとって興味をひかれる話に違いない。その形成に到る過程では、戦略的要件に基く製図への応用、あるいは今日の航空写真術のような実用性への評価が先行するケースもあり得たが、射影幾何学の本来の価値が数学の諸部門に与えた広範囲な影響力にあることを疑う人は、今日、一人もいないだろう。
数学の中での類いまれな美しさ故に、人は射影幾何学を愛するのである。ユークリッド幾何学に宿命的な多量の仮定、それに伴う複雑な情報を、射影幾何学は明確に排除する。また、デカルト的思考に基く代数式の細かい複雑さを必要としない直観の分野を拡大させる。その結果、別項で詳述するが、対称性や対等性の哲理を導く深渕に、人はまた魅せられるのである。
ここでは偶然性の強調が顔を出す余地はない。収容所生活での資料や用具の不足が複雑な細部を回避させたとする連想以上に、ポンスレが、ナポレオンに由縁ある二人の数学者の弟子であった事実を、われわれは思い出すだろう。二人はナポレオンの栄光と落日の反映とも言える劇的な生涯で知られているが、何よりも「新しい観点」の先導者としての役割をになっていた。
ガスパール・モンジュは、ナポレオン軍団の幕下にいて、エジプト等の外征地における文化的啓蒙の職務に励んだが、戦略上の主題から築城工事に一つの解答を与えた。算術計算を越えた幾何学的な解法である。即ち、立体その他の空間における図形は、一平面(製図版)上の二つの正射影によって表現される。工兵学や機械設計学に革命をもたらした業績であるが、やがてエコール・ポリテクニク(パリ高等理工学校)の初代校長としての講義録は「Lecons de geometrie descriptive(画法幾何学)」として出版された。また、後年、ヨハン・フリードリヒ・ガウスがその研究を継承することになる「Application de l’ analyse ala geometrie(幾何学への解析学の応用)」の名著がある。
ラザール・ニコラス・カルノは、モンジュの弟子として出発し、ナポレオン失脚後は、ブルボン家から、モンジュと共にエコール・ポリテクニクを追放されている。多くの業績の中の一つとして射影幾何学の立場から位置に関する図形の性質を主題にした「Geometrie de position(位置の幾何学)」がある。カルノ数学における革命的要素として、「幾何学を解析学の象形文字から解放すること」への情熱を見出すことができるだろう。
時代の精神をより十全に反映させた数学史における画期的な成果に、誰もが気づくに違いない。例えば、その当時、ナポレオンの栄光と陰り、再燃と落日の激動の中で、保身に節を曲げたと言われるフーリェやラグランジュにしても、彼等の数学あるいは数理物理学での業績は歴史の中で輝きを失うことはないだろう。
十七世紀における時代の要請をデカルト的思考に認めるならば、十九世紀における時代の要請は、エコール・ポリテクニクの校風に具現されていたと言えるかもしれない。変転する政情の余波をもろに受けながらも、「革命」――それはやがて恐怖政治を招いたが、世界史上、アメリカ独立革命とともに、人間の尊厳と自由の理念において後世に限りない影響を与えた「フランス革命」の源泉は、校風として学生達が継承していった。
例えばモンジュの死後、その葬儀にまでもついて回るブルボン家の迫害に屈しなかった学生達の勇気はいつまでも語り継がれる真実である。そして、また例えば、エコール・ポリテクニクの学生達の反撥的傾向に対して、ナポレオンがモンジュに弾圧を匂わせたことがあった。そのとき、モンジュは次のように応えたという。――閣下、私は学生達を共和主義者にするために比上ない苦労をしたのです。今度は、帝政主義者にするにも時間が必要なのです。……閣下の転向は余りにも早わざにすぎたと言えるでしょう。
こうしたエピソードは、エコール・ポリテクニクの校風を伝えるのに充分だといえよう。
そして栄光の人物、ナポレオン・ボナパルトに、われわれは歴史上に悪名高い専制君主達の姿を見ることはない。今日的観点から否定されるべき負の面を数えあげても、なお、彼の生を貫いた理念の現存が歴史の中に大きな場を占めるのである。あの激動期に、ナポレオンに代った偽政者達の卑小さは、歴史に接する人々の心中から拭い去ることができない真実であろう。
ジャン・ヴィクトル・ポンスレによる射影幾何学の形成は、ここに列記したすべての要因の中から達成された、と私は考える。
〔射影と切断Ⅰ〕
窓ガラスをとおして外の景色を眺める。窓枠をカンヴァスと想定するとき、外景はそのまま一枚の絵となる。
例えば①空間射影図の小さい円を窓枠と考える。そして、対象(大きい円)から出て一点(0→人間の眼)に「収束する直線の集合」を射影(Projection)と言い、その射影を一つの平面で切ること、あるいはそのときできる「射影と平面の交点の集合」を切断(section)と言う。
例えば、窓外の景色(大きい三角)が一点0(眼)に収束する直線の集合を、一枚のガラス(小さい円)で切断したとき、この交点の集合に映る景色(小さい三角)は切断面となる。忘れてならないことは、射影は0(眼)の位置によって無数に生れ、また一つの射影に対して切断も無限にあることである。
そして、窓外の景色(大きい円と三角)もまた切断面として考えるとき、二つの切断面を「配景的(Perspective)」であると言う。
射影幾何学について一つの定義を与えるとすれば、配景的関係にある切断、即ち、同じ射影の異る切断のあいだの共通な特性を研究する幾何学であると言えるだろう。
②平面射影図は点例l(P・Q・R・S)とl’(P’・Q’・R’・S’)が互いに配景的対応をなすことを意味する。点例l(P・Q・R・S)と線束L(P・Q・R・S)が配景的関係にあると表現する場合もある。
―――つづく―――
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