射影と切断〔Ⅱ〕
―J..ポンスレへの道程―


                                                                                              2001年3月3日論述


〔新しい幾何学へ――ルネサンスの天才達〕

   ローマ教皇庁の文書官、そして、ラテン語散文の秀逸さで知られる一人のカトリック司祭がいた。近世の世明けを告げる息吹きの中で、生地ジェノヴァからパドヴァ、ボローニャで修学し、やがてフィレンツェでメディチ家と親しみ、ローマに定住したが、彼のラテン語による業績は、文芸のほかに、美術・哲学・数学と多岐にわたっている。
   特に建築における業績は、後世に与えた影響力で傑出している。
   レオン・バティスタ・アルベルティの代表作として、リミニの聖フランシスコ聖堂の設計をあげることができるが、天才達にまつわるエピソードには「驚き」がこめられている。アルベルティの場合、技術的経験のない設計者が遺した新時代への指導性がそれである。だが、私はこうした事例の多くが古典主義的傾向の創作者たちにしばしばみられることを強調したい。

   一つの特異な例が、こうした事項についての興味深い主題を提供する。フレーゲやラッセル等とともに現代論理学の形成に大きな役割をになったルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインによる唯一の建築設計である。 

 

[説明] 

    1926年、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは実姉マルガレーテ・ストンボロウ夫人の住居建築の設計をした。この姉の肖像画はグスタフ・クリムトの作品として今日に残されている。

     ガラス窓と扉、サロンの入り口に面した南側のテラス。全体が四分割され、それぞれが縦桟で再分割。扉の高さ(2.825m)は、ガラスの開口幅に等しい。


     ヴィトゲンシュタインの愛弟子、フォン・ウリクトは、この建築物が「論理哲学論考」の命題に等しい、簡潔で静かな美しさを持つことを語った。


    あらゆる装飾を排除しながら、居住性に優れた、しかも前衛的なこの家は、後年、オーストリア国家指定の記念物に定められた。






    20世紀という同じ世紀の中で激しい展開を経たあらゆる美の分野で、この20世紀初頭の建築が持つ単純明解で秀れた構成美について、今日の前衛的設計者たちに今なお大きな示唆を与えていると言われている。工学に専心した若年の日から、やがて数学のさまざまな主題への関心、そして数学基礎論への到達――、ヴィトゲンシュタインにおける探求の経緯は、またその哲学の変貌と規を一にしているが、始終変らないことの一つとして、近代哲学への厳しい否定がうかがえる。詳説は別の機会にゆずるが、ヴィトゲンシュタインにおけるスコラ学への強い親近性の現われを認めることができるだろう。

   アルベルティの場合、古典的遺産への深い研究が、建築の基本精神から生れる造型感覚に強く結びついているが、直接的な影響として、フィリッポ・ブルネレスキの存在を忘れることはできない。フィレンツェ出身のこの建築家は、彫刻家を志した時期に、当時の新しい学問であった「遠近法」を究めたと伝えられている。
   遠近法については既にギリシャ時代に始まると言える。陰影画として伝えられている記録がその事実を示しているが、ルネサンスの画家達はそれを空間表現のための芸術的手段として確率していった。アルベルティは、マントヴァの聖アンドレア聖堂の建築に際して、堂内の平面設計と空間構成とで後世への影響を深くしたが、その古典主義的造型感覚は独自の斬新性と相まって巧みな整合性を果したと言えるだろう。
   ブルネレスキとアルベルティ。遠近法に内在する性格=数学的構造の解明に情熱を傾けた二人だが、それに続く最大の天才にわれわれは出会わねばならない。


〔射影と切断2――透視図法〕

   レオナルド・ダヴィンチを偉大な詩人とよぶことに異論はないだろう。そして、この尊称は、彼の芸術活動における業績だけに由来するのではなく、解剖学・天文学・光学・力学・地質学・建築学・飛行術の試み、といった多彩な成果の上に由来することを後世の人達は知っている。
   しかし、私はいま数学史の中だけに限って、ダビンチを偉大な詩人と言うのである。彼が先導者から受け継ぎ、やがて完成した透視図法理論の奥にこそ、詩人としての秀れた特質を私は思う。それは、不思議な美しさを人々に与えずにはおかない「射影と切断」の概念に由来する。19世紀に形成される射影幾何学の基礎は、ダヴィンチによって与えられたと言えるのである。

レオナルド・ダヴィンチ 「最後の晩餐」

   対象と眼を結ぶ無数の視線の集合からできる錐面(visual cone of rays)を垂直な画面によって切る。その切断面である透視図と画面との関係から生れる概念である。画面に平行な直線(縮小されない平行線)と画面に傾く直線(縮小され、互いに平行な場合、一定点に集中する直線)による図形として、それは考えられよう。
   有名な「最後の晩餐」の完ぺきな透視図法をわれわれは思い出す。この絵では、射影の頂点、即ち縮小された直線が集中する一定点が食卓の中心に坐するキリストの額になっていることにより、逆の射影の表現のように思わせる。この効果は一つの美学を形成する。


〔射影と切断3――円錐曲線〕

   ――円錐曲線に内接する六辺形の、相対する三組の辺の交点は共点である。
   有名なパスカルの定理である。通常、円あるいは長円(楕円)に内接する六辺形として示されるが、ブレーズ・パスカルは十六歳のときの「円錐曲線試論」で、自からの研究がジェラール・デザルグの業績に負うところが多いことを述べている。「デザルグの定理」については改めて詳述するが、パスカルの探求は、すべての円錐曲線に向けられ、こうした作業の根底に、あの遠近法→透視図法から継承した「射影と切断」の概念が存在することは当然である。
   建築技術家だったデザルグが、ダヴィンチ、デューラーの業績に感銘を受けたに違いないという想定は充分成り立つ。だが、当時、多くの数学者たちから無視されたため、彼は建築家に戻ってしまい、若年のパスカルが初めて彼の功績を讃えた。
   だが、それにも増して、歴史の皮肉は次の一事に集約される。
   数学的立場――やや妥当を欠く表現ではあるが――、この立場を異にする解析学の大家ルネ・デカルトが、デザルグやパスカルの「射影と切断」の研究を評価した唯一の人物だったと言われている。今日、例えばイギリスの数学者アーサー・ケーリー(18211895)の次の言葉――
       Projective geometry is all geometry
     (射影幾何学はすべての幾何学である。)
   に示される広範囲の影響力を発揮するには、十八世紀終り頃から十九世紀にかけての「エコール・ポリテクニク」の数学者たちの出現を待たねばならず、そのため、この美学的特質を備えた幾何学は、約二百年の長い眠りにつくことになる。
   パスカルの「……六辺形の定理」が射影と切断の概念に基くことは次の説明で明らかであろう。


   円錐の頂点を、かりに透視図法で「消失点(vanishing point)」と称する一定点とみなせば、円錐とはそもそも、一定点に集中する視線の集合、即ち、「円の射影(projection)」であり、円錐曲線は「その切断(section)」である。そうすれば、この切断面に内接する六辺形の射影を新たに切断すると、新しい切断面(円錐曲線)に内接する六辺形ができることになる。そのとき、二つの円錐曲線と同様に、また二つの六辺形と同様に、もとの「相対する三組の線の交点が作る一直線」と新しい六辺形から同じように作られる一直線は、「配景的(perspective)」な関係にあることになる。なぜならば、新しい六辺形についてもパスカルの定理はそのまま成立するからであり、このすべてがまた射影幾何学の重要な定理である。
   円錐曲線を例えば英語で考えるとき、この美学的特質を持った概念は更に明確になるだろう。
   Conic Section――直訳すれば「円錐切断面(または線)」ということである。


〔中世論理学のなかの射影幾何学性〕

   ジャン・ヴィクトル・ポンスレによる射影幾何学の形成で、最も注目すべき成果は次の二つの着想のなかに見出すことができる。

  ①    連続の原理 Principle of Continuity
  ②    双対の原理 Principle of Duality

  これについては別項で後述する。ここでは、論理学史に顔を出す双対性(そうついせい=duality)の問題を考えたいと思う。ポンスレへの道程を探ねる歴史との対話で、それは決して無意味ではあるまい。
論理学の歴史における「怠惰な経過」が、しばしば、あらゆる歴史の中で類
を見ない特異性として語られる一般的見解がある。膠着した名辞論理学はアリストテレス以来、約二千年ものあいだ、殆んど無修正のまま継続した。十九世紀になってようやく、それも数学者たちが考察を深めていった「数学基礎論」から新しい展開が得られた、とされている。
   しかし、この蓋然的な一般論が見落しがちな歴史の真実を確かめることは常に必要であろう。
   それは中世哲学と一般に言われている「スコラ学派」の成果と衰退、いわば年月の灰の中から甦えった事実である。論理学史、あるいは哲学史の詳説はここでは省略する。即ち、宗教改革などによる中世の終焉後、ラミスト的論理学、あるいはポール・ロワイヤル論理学などの緩やかな展開があったとはいえ、中世スコラ学が遂げてきた発展は、この時期の時代感覚(反カトリック思潮)によって拒否されてしまっていた。その結果、カント哲学からの飛翔を狙ったヘーゲルが、「論理学」的著作の集大成を形成したが、例えば彼の「大論理学」が論理的内容を備えていないことは、今日、誰の目にも明らかである。このため、ベルンハルト・ボルツァーノは、単に「反カント」であるばかりでなく、ヘーゲル論理学への力強い批判を続けていた。

   だが、先記したように、ここではその詳述は別の機会に譲り、二つの事項だけに対象を限定する。この二つは歴史的観点からすれば分離できない一体性を持っている。  ――(1)命題論理学の展開、(2)双対性の導入による飛躍、である。
   (1)については、十九世紀から二十世紀にかけて、ブール、ルカシェーヴィッチ、フレーゲ、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン等によって確立されたと言われている。(2)については、ブールの代数導入の段階では存在しなかった「非・排他的」選言肢の採用による「双対性」が、クラス論理学の段階ではシュレッダーにより、命題論理学への応用ではヒルベルトとアッケルマンによって達成されたと言われている。
   だが、アリストテレス以後のさまざまな継承者、また著名なメガラ――ストア派の秀れた業績でさえ陥っていた「排他的選言肢」から、完全に免れていたスコラ学派の先見性と「神学から始まる諸学への深化」の態様は、現代哲学の考えかた、そして、数理論理学が多様な展開を準備した現代論理学の思考法に最も密接するものとして考えられるだろう。私がしばしば強調する「真の前衛は、いつの時代でも、常に古典主義の中から新生する」原理を、論理学史の事実もまた物語っている。
   簡単に説明しよう。
   記号論理学(数理論理学、数学的論理学と同義)で、()で表記される「あるいは(or)」の意味を持つ選言記号において――

   PvQ(Pであるか、またはQである)
   という命題の真偽で、PQのどちらかが真であれば命題は真、PQのどちらも偽であれば命題は偽となる。これは古典論理の世界でも同じである。問題はPQのどちらも真である場合、現代論理学が命題を真とするのに対して、伝統的論理学はそれを偽とする差異が生れている。伝統的論理学、この「排他性」は論理学の発展を妨げる原因であった。
   排他性の原因は、文の最小単位を名辞(名前――term)に措定することにある。つまり「主語+述語」の「+述語」が「=名辞」の形式に固定されるとき、論理学が扱う範囲は「主語が述語に包摂されるか」の真偽だけに限定される。当然のように「これはコーヒーであるか。または紅茶である」の命題で、PQも真であることはあり得なくなる。
   これを別の場面に置き換える。――この飲みものについて、いったい彼は何と言っていたのか? それに対して――彼はこれをコーヒーと言ったか、あるいは紅茶と言ったかのどちらかです。
   この場合、彼がPと言い、またQと言うことはあり得る。PQの双方が真であっても、先の命題は真となるのである。即ち、現代論理学の基本となった命題論理学では、最も単純な命題そのものが最小単位になるということ、従って指示された物が何であるかより、「主語+述語」の「述語」が動詞を中心とした動態的な文の構造を確かめる思考法に発展する。
   この「選言命題」に対する「連言命題」の両者を、ヴィトゲンシュタインによって確立された真理値表(truth table)を使って表示してみよう。(Tは真、Fは偽を表わす。)


  連言



選言
   左の真理値表を見れば、連言命題(PそしてQ)と選言命題(PまたはQ)が、「双対」関係にあることが明らかとなる。

   この「双対の原理」は命題論理学の形式とともに論理学に導入された「射影幾何学の着想」である。当然のように、「述語論理学」から「様相論理学」への発展の経過で、論理計算における効用性を発揮するばかりでなく、思考の基本を形成する作用をも果している。
   学問体系の生誕期において、名辞論理学にみられる最小単位としてのtermの設定、あるいは包摂概念の中心視といった思考作用は、ある必然を伴う条件とも言えよう。重視しなければならないことは、むしろ、スコラ学派が形成しつつあった(それが神学への推断であったとしても)命題論理学への展開を、中世の終了時点から、即ち、近代(近世)から現代までの年月を、論理学者たちが見失っていた事実である。カントやヘーゲルの業績を評価したとしても、こうしたドイツ観念論の系譜が忌避し放棄した事項についての反省はなされなければなるまい。
   特に、カントからの脱皮、そして新たな展開を図ったヘーゲルが、壮大な体系を紡ぎあげた有名な「大論理学」について、それをヘーゲル哲学における「内実の表出」と想定することは可能であっても、およそ論理学から程遠いことを、現代の論理学者及び数学者は全て熟知している。


   現代論理学形成者の一人、ヤン・ルカシェーヴィッチが「命題論理学の歴史」で、その崩壊を惜しむスコラ学派の先見性、その「推断論」における日常言語(ラテン語による)の推論について、また「双対性」が論理学の諸分野で働く役割について、別の機会に論じたいと思う。


JV・ポンスレの二つの着想〕

   一つの図形が射影その他の方法によって他の図形に変形される。そのとき幾何学的性質は保存され得るか?
    (連続性原理への設問)
   最も一般的な変換例としては、次のケースが相当しよう。


           


   上の図における、二つの交わる円を眺めよう。その交点AB。直線ABは二円の共通弦となる。共通弦の上の任意の点P。点Pから二円に四つの接線をひく。円との接点をT₁・T₂・T₃・T₄とする。四つの線分PT₁~PT₄はすべて等長である。
   さて、二円が離れていく想定をする。共通弦は二円の接触点での接線となる。次に二円は完全に離れる。二つの交点→ 一つの接点→ はついに見えなくなる。共通弦は二円の間を通っている(と見える)。
   ところで、傍線の部分の「定理――二つの交円にひいた接線の長さが等しくなるような点Pの軌跡は二円の共通弦である」……、この軌跡は変換した図形にそのまま残っている。
   「連続の原理(Principle of Continuity)」とは右の例示で明らかなように、連続的に位置を変える図形について、最初の証明が生きていることへの要請に基いている。



               [連続の原理] →→→

[パスカルの定理]
         
          ↑↓                ↑↓
          ↑↓(双対関係)            ↑↓(双対関係)
           

[ブリアンションの定理]

   例えば(図を参照)、神秘的六辺形として有名な「パスカルの定理」の六辺形が、連続変換で三角形になったとき、もとの辺は三角形での辺と各頂点の接線にもなる。ポンスレは極限の概念を利用して、双曲線におけるパスカルの定理の連続性を示した。円、双曲線、放物線がそれぞれ円錐曲線の連続性で生れる図形であれば、六辺形の定理は、今度は図のような変換した三角形の中でも生かされる。これはまた「パップスの定理」を得たことにもなる。
   同じように「ブリアンションの定理――円(円錐曲線)に外接する六辺形の三組の頂点を結ぶ直線は共点である」は、図示のように連続変換で生れた外接三辺形の中にも生きていることになる。
   連続の定理で活用されている極と極限の概念、しばしば「虚」点あるいは「理想的」点といわれる「無限遠点(線)――pointlineat infinity」の着想が、既にポンスレより以前、デザルグやパスカルによって得られたものであることは明らかである。この概念については、機会を改めて詳述しよう。
   JV・ポンスレの数学上の武器、あるいは展開への着想のもう一つとして、「双対の原理(Principle of Duality)」がもたらした数学史における影響は、やがて十九世紀に形成される命題論理学や述語論理学への大きな貢献となって現われた。
   最も簡単な例は上記の図に示される。

   右図――二つの異なった点は一つの直線の上にある。

   左図――二つの異なった直線は一つの点の上にある。

   右の二つの命題の、点と線を置き換えるとき、互いに双対の別の命題が得られる。
   シャルル・ブリアンションは、パスカルの定理から、それと双対関係にある定理をつくったが、それはポンスレ幾何学への一つの大きなステップとなった。(図参照―タテに見る)
   この「双対の原理」のさまざまな応用、そして、アーサー・ケーリーの言葉――
Projective geometry is all geometry.
が示すように、射影幾何学が非ユークリッド幾何学をも包含する内容については、改めて述べたいと思う。


射影と切断〔Ⅰ〕
―J..ポンスレへの道程―



                                              2001年1月15日論述


Jean-Victor Poncelet

 春の訪れが彼に生気を甦らせた。
 だが、四月とはいえ、ボルガ沿岸に積もった雪は、その厚みを少しも減らす気配はない。雲間からもれる微かな陽光と、白い雪面の輝きに、僅かながら変化の兆しを彼は感じとっていた。
 今更のように、自からなすべき事を彼は胸の内に確かめる、そのとき、悪夢は彼に訣別を告げるだろう。悪夢……。

 それは突然の来訪者だった。軍事的天才・ナポレオンさえが予期し得ぬ非戦略的反抗である。頼りない軍勢に突きつけられた無条件降伏の勧告のさなかで、モスクワ市民達の本能がそうさせた炎上作戦。極寒の自然は、外来者たちに猛威をふるうだろう。ナポレオンは必生の機をライプチヒの戦場に求めた。
 一八一二年十一月、皇帝に見捨てられた敗残軍はクラスノーイの原野で完敗を喫した。
 水銀柱も凍りつく寒気の広野を、ぼろぼろの軍服と僅かな黒パンの配給食で辛うじて生命を支えながらの行軍。ボルガ沿岸のサラトフ収容所への四ヶ月に及ぶ行程である。悲惨な脱落者の数は跡を絶たなかった。
 四月。雲間からさす陽光と雪面の輝きに、憔悴から立ち直った若い工兵将校は、自からなすべき事を胸の内に確かめていた。



〔エコール・ポリテクニクとナポレオン〕

 ジャン・ヴィクトル・ポンスレは、その古典的名著「Traite des proprietes projectives des figures, 1822(図形の射影的性質の理論)」の序文で、モスクワ戦線敗退の悲惨な経験を記している。
 捕虜収容所で、書籍や資料もなく、僅かな筆記具で、エコール・ポリテクニク(パリ高等理工科学校)在学中に得た数学――高等幾何学から微積分学を復習したが、この二十三歳の青年は、やがて解析学等の複雑な細部が脳裏を離れ、基本的原理だけが記憶を占めるようになった――、と後年語ったことが伝えられている。一八一四年九月、J・V・ポンスレはフランスに帰ったが、捕虜収容所の中で「射影幾何学」を形成した事実は周知である。しかし、天才にまつわるエピソード――しばしば極端な記述によって偶然性が強調される――の存在は、ポンスレの場合も例外ではない。不幸や苦難が天才達の業績に対して因果関係を成立させるかのような、あの伝説集である。
 サラトフ収容所での苦しい日々。例えば、パスカルにおける「病の善用」との相似性を認めても、そうであれば、なお一つの生の積極的な側面を見ることになる。しかも、ポンスレにおいては、数学はその生の側面だけではなかった。復員後の多忙な軍務の中でも、数学は彼の生のすべてであった。ナポレオンに由縁ある他の数学者達がそうであったようにである。ある成果が天才によるとすれば、天才であるという前提だけで、天才にまつわるエピソードの強調された偶然性を否定するに充分であろう。

 ポンスレが後年語ったといわれる「基本的原理だけが記憶を占めた」逸話は、射影幾何学を愛する人達にとって興味をひかれる話に違いない。その形成に到る過程では、戦略的要件に基く製図への応用、あるいは今日の航空写真術のような実用性への評価が先行するケースもあり得たが、射影幾何学の本来の価値が数学の諸部門に与えた広範囲な影響力にあることを疑う人は、今日、一人もいないだろう。
 数学の中での類いまれな美しさ故に、人は射影幾何学を愛するのである。ユークリッド幾何学に宿命的な多量の仮定、それに伴う複雑な情報を、射影幾何学は明確に排除する。また、デカルト的思考に基く代数式の細かい複雑さを必要としない直観の分野を拡大させる。その結果、別項で詳述するが、対称性や対等性の哲理を導く深渕に、人はまた魅せられるのである。
 ここでは偶然性の強調が顔を出す余地はない。収容所生活での資料や用具の不足が複雑な細部を回避させたとする連想以上に、ポンスレが、ナポレオンに由縁ある二人の数学者の弟子であった事実を、われわれは思い出すだろう。二人はナポレオンの栄光と落日の反映とも言える劇的な生涯で知られているが、何よりも「新しい観点」の先導者としての役割をになっていた。

 ガスパール・モンジュは、ナポレオン軍団の幕下にいて、エジプト等の外征地における文化的啓蒙の職務に励んだが、戦略上の主題から築城工事に一つの解答を与えた。算術計算を越えた幾何学的な解法である。即ち、立体その他の空間における図形は、一平面(製図版)上の二つの正射影によって表現される。工兵学や機械設計学に革命をもたらした業績であるが、やがてエコール・ポリテクニク(パリ高等理工学校)の初代校長としての講義録は「Lecons de geometrie descriptive(画法幾何学)」として出版された。また、後年、ヨハン・フリードリヒ・ガウスがその研究を継承することになる「Application de l’ analyse ala geometrie(幾何学への解析学の応用)」の名著がある。

 ラザール・ニコラス・カルノは、モンジュの弟子として出発し、ナポレオン失脚後は、ブルボン家から、モンジュと共にエコール・ポリテクニクを追放されている。多くの業績の中の一つとして射影幾何学の立場から位置に関する図形の性質を主題にした「Geometrie de position(位置の幾何学)」がある。カルノ数学における革命的要素として、「幾何学を解析学の象形文字から解放すること」への情熱を見出すことができるだろう。
 時代の精神をより十全に反映させた数学史における画期的な成果に、誰もが気づくに違いない。例えば、その当時、ナポレオンの栄光と陰り、再燃と落日の激動の中で、保身に節を曲げたと言われるフーリェやラグランジュにしても、彼等の数学あるいは数理物理学での業績は歴史の中で輝きを失うことはないだろう。

 十七世紀における時代の要請をデカルト的思考に認めるならば、十九世紀における時代の要請は、エコール・ポリテクニクの校風に具現されていたと言えるかもしれない。変転する政情の余波をもろに受けながらも、「革命」――それはやがて恐怖政治を招いたが、世界史上、アメリカ独立革命とともに、人間の尊厳と自由の理念において後世に限りない影響を与えた「フランス革命」の源泉は、校風として学生達が継承していった。
 例えばモンジュの死後、その葬儀にまでもついて回るブルボン家の迫害に屈しなかった学生達の勇気はいつまでも語り継がれる真実である。そして、また例えば、エコール・ポリテクニクの学生達の反撥的傾向に対して、ナポレオンがモンジュに弾圧を匂わせたことがあった。そのとき、モンジュは次のように応えたという。――閣下、私は学生達を共和主義者にするために比上ない苦労をしたのです。今度は、帝政主義者にするにも時間が必要なのです。……閣下の転向は余りにも早わざにすぎたと言えるでしょう。
 こうしたエピソードは、エコール・ポリテクニクの校風を伝えるのに充分だといえよう。
 そして栄光の人物、ナポレオン・ボナパルトに、われわれは歴史上に悪名高い専制君主達の姿を見ることはない。今日的観点から否定されるべき負の面を数えあげても、なお、彼の生を貫いた理念の現存が歴史の中に大きな場を占めるのである。あの激動期に、ナポレオンに代った偽政者達の卑小さは、歴史に接する人々の心中から拭い去ることができない真実であろう。


 ジャン・ヴィクトル・ポンスレによる射影幾何学の形成は、ここに列記したすべての要因の中から達成された、と私は考える。



〔射影と切断Ⅰ〕

 窓ガラスをとおして外の景色を眺める。窓枠をカンヴァスと想定するとき、外景はそのまま一枚の絵となる。
 例えば①空間射影図の小さい円を窓枠と考える。そして、対象(大きい円)から出て一点(0→人間の眼)に「収束する直線の集合」を射影(Projection)と言い、その射影を一つの平面で切ること、あるいはそのときできる「射影と平面の交点の集合」を切断(section)と言う。


 例えば、窓外の景色(大きい三角)が一点0(眼)に収束する直線の集合を、一枚のガラス(小さい円)で切断したとき、この交点の集合に映る景色(小さい三角)は切断面となる。忘れてならないことは、射影は0(眼)の位置によって無数に生れ、また一つの射影に対して切断も無限にあることである。
 そして、窓外の景色(大きい円と三角)もまた切断面として考えるとき、二つの切断面を「配景的(Perspective)」であると言う。
 射影幾何学について一つの定義を与えるとすれば、配景的関係にある切断、即ち、同じ射影の異る切断のあいだの共通な特性を研究する幾何学であると言えるだろう。
 ②平面射影図は点例l(PQRS)とl’P’Q’R’S’)が互いに配景的対応をなすことを意味する。点例l(PQRS)と線束LPQRS)が配景的関係にあると表現する場合もある。

                          ―――つづく―――